2015年6月29日月曜日
「四本の柱」花園2015年7月号より
「四本の柱」片山秀光
「逃げろ!津波がそこまできたぞ!」
消防団員の緊迫した叫び声、「お父さ〜ん!」悲鳴を上げ走ってきた長女、鐘楼堂前のアスファルトに蛇の舌のような黒い水が這い上がり、参道の杉林がぶるぶる揺れ、その後ろに押し潰された家々が塊となって押し寄せて来ていたのだ。
「人のこの世は長くして変わらぬ春と思いしに 無常の風は隔てなくはかなき夢となりにけり」(光明摂取和讃)
あの日、三月十一日午後二時四十六分、気温が低下し雪が降り始めていた。
お寺より三百メートル海寄りにある向洋高校の生徒と教職員二百名近くが指定避難所になっている地福寺の駐車場に避難していた。津波の情報は六〜七メートルの高さから十メートルを超す大津波警報に変わっていた。その時点で先生達は、なだらかな道の先に在る気仙沼線の陸前階上駅に移動した。その向洋高校に隣接した場所に住んでいた妹たち一家が「すごかったよ、液状化現象!」と、誰もいなくなった駐車場に、車から降りるなり青ざめた顔でただならぬ様子を知らせた。と、間もなく消防団員が波がそこまで来ていると絶叫して知らせてくれたのだ。状況が飲み込めないまま立ちすくんでいた私はその声で身の危険を感じ、「逃げろ!」と叫び、寺の後ろに回り、娘と檀家のお婆さん、お嫁さんとその子供たちの六人と共に玄関が開いていた民家の二階に駆け上がったのだ。踊り場から下を見るとジワリジワリと波がせり上がって来る。思わず「止まれ、止まれ!」と祈った。二階の表側に出てみると時速四十キロもあろうか、引き波がナイヤガラの滝ツボに向かうようなすさまじい勢いで家々を海に引きずり、周囲の家々が流され、あるいは瓦礫に打ち砕かれて海に呑まれていった。その中でお寺はすっくと建って残っていた。沖合に横一直線に白波がささくれ立っているのが見えた。
無常の殺気一刹那、第一波でお寺周辺の景色は一変していた。「ここも危ない、もっと上に逃げよう」表通りは瓦礫の山だったので裏道を通り、上手の道に抜け、皆と共に中学校の体育館に避難した。
津波に飲み込まれたと思っていた寺庭は、道々の家に「津波が来たよ!」と叫び知らせながら体育館に逃げ、我が家は全員が無事であった。
体育館には二千人ほどが避難し、皆顔面蒼白で互いの安否を気遣っていた。中に入ると檀家さんが「和尚さん、生きてた。生きてた」と駆け寄ってくれた。お寺から一キロほどの岩井先の海に私は白い着物を着て浮かんでた、と噂になっていたのだと言う。
そこは無常の嵐が吹き荒れ、行方不明の安否情報が交錯し、愛別離苦の大波が押し寄せる修羅場であった。
私達は地区の檀家さんたち家族と、教室の一角で夜を明かすことになった。毛布一枚を膝に掛け、肩を寄せ合いおにぎり一個、コップ一杯の水を分かち合い、寒さに耐えながら夜の明けるのを待った。長い長い夜だった。
翌朝、弟と共に瓦礫の山を縫ってお寺に向かった。折り重なり流れ着いた瓦礫とめちゃめちゃになった仏具の中に四本の柱が傷だらけの本堂をすっくと支えていた。本堂新築の際、「住職、ここはこれでなければだめだ、私らの言う通りにさせてくれ」と建設に当たった総代長、建設検討委員長が吟味した太いケヤキの柱が津波の圧力に耐えて本堂を支えてくれたのだ。涙が込み上げて来てならなかった。総代長、副総代長、総代は行方不明となっている。
その日から檀家さんの安否確認や、遺体安置所での諷経、火葬等々のすさまじい日々が始まった。
「海鳴りが今朝も聞こえる
胸の奥の砂浜に波がきらめく
幾万年も照らし続ける陽が又昇る
彼方の空で見つめ続ける命に向けて
生き行くものよ顔を上げろ
明日に向かってたちあがれ」ー 節語り説法ユニット「カッサパ」CD『陽はまた昇る』より
亡き方々と共に誓う、一念復興!
合掌
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