地福寺(気仙沼)

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2014年6月5日木曜日

東日本大震災遺構の提案「波路上地区一帯を遺構に」

東日本大震災遺構の提案

「波路上地区一帯を遺構に」

地福寺住職
海べの森をつくろう会 副理事長
片山秀光

東日本大震災も三年が過ぎ、ようやく復興への槌音が聞こえてきた。大震災の記憶が風化することなくあの災害を後世に伝える為に、遺構を残そうとの候補地も数箇所選考されたようであるが、私は波路上地区一帯を遺構に」とすることを提案したい。


波路上地区の明戸は明治二十九年の三陸大海嘯で全戸八十九戸の集落が瞬時にして壊滅、住民五百八十八人のうち四百三十三人が犠牲となった悲劇の地である。

今回の津波は御下賜と板垣退助指示により、地元貿易商小野寺大三郎の構想によって高台集団移転した通称「明戸町」まで遡り、明治の津波をはるかに上回る大規模、且つ広範囲な被害を蒙ったのである。

波の路の上、波路上という風雅な地名にはかくも悲惨な震災の歴史と物語が隠されているのだ。

ここは「三陸復興国立公園岩井崎」を南から北上する際の玄関口、北から南下する場合の「最終地」であり、貴重なジオパークの認定地で気仙沼の顔ともいえる所なのだ。

遺構を巡ってみよう。国道四十五号線「岩井崎入口から波路上の地に入ると、真っ直ぐな道に沿って家並みが並ぶ日本で最初の集団高台移転の場所で、その先に地福寺が海に向かって両手を広げ凛として建っている。寺そのものも震災遺構で、押し寄せたな波で柱がへし折られたが檀信徒の建立の思いがかろうじて堂宇を支え残した。突き抜けた波は三門、鐘楼堂、庫裏を破壊し、寺裏の民家を瓦礫と化した。本堂入口の白壁には十八メートルの浸水線跡が残されている。


この震災で周辺では百八十八名の方々が亡くなっており、その弔いに、愛知県犬山の発願で津波浸水の高さの地蔵さまが建立され「いのりの広場」として立ち寄る人々が海に向かって手を合わせている。


本堂には被災物故者の遺影がずらりと並び、ホールには被災当初の貴重な写真や、全国各地のボランティア団体、芸能人の写真、メッセージが展示されてある。


地福寺から西方角お伊勢浜方面に至る五十メートル程に「鎮魂の森」の看板がある。ここは気仙沼市立松岩小学校の教諭であった畠山登美子さん(当時五十歳)一家が帰らぬ人となった場所である。屋敷跡をご親族が鎮魂の森に、と地福寺に寄進し、地元有志で立ち上げたNPO法人「海べの森をつくろう会」が森の防潮堤の先駆けとして三千本を植樹、津波から残った杉の木に、チェンソーアート第一人者の城所ケイジ氏が、安らかに「天に昇れ」との願いを込めた「昇竜」(高さ九メートル)が彫刻されてある。

登美子さんの祖父は明治二十九年の大津波で父を亡くし、村人と共に集団移転でこの地に家を構えたが、百十五年後に再び被災し、一家は絶えたのである。祖父から何度も伝え聞いていたのであろう悲惨な津波被災の思いを彼女は短歌にし、

「春彼岸 津波寄せ來きし浜に立つ わが曾祖父も波に消えたり」
と歌った。

朝日歌壇に入選作品として紹介されたのは震災から一か月後であった。

鎮魂の森から二百メートル、お伊勢浜方向に歩くと平成二十四年五月、長野県飯田市、下伊那の有志が建立した「羅漢案山子」がお伊勢浜、岩井崎、波路上湾の三方をにらみ、すっくと立っている。二科展入選作家、大場敏弘氏の作品である。

案内プレートには

「わしも傷つき 動けず語れず 突っ立ったまま
されど残された人々よ 悲しみを乗り越え不屈であれ」
かかしはそう祈っているはずです。
と記されている。

石像周りには九州福岡の筑紫女学院の生徒さんが蒔いた菜の花が咲き、背後には北海道帯広柏葉高等学校の生徒さんが植樹した北海道の道木、イチイがすっくと立っている。

その斜め対面に栃木県宇都宮市の作新の森がある。

平成二十五年六月、作新学園中等部の生徒さんたちが復興を願い、白ダモや椿、などの植樹をした。これはNPO法人「海べの森をつくろう会」の趣旨に賛同した宿泊体験学習の一環として行ったもので、今後も継続して訪れ復興を支援する活動となる。

作新の森からお伊勢浜に至る道を四百メートル、携帯電話会社の巨大な送受信塔を目印に進むと、杉の下地区の避難場所に至る。

ここ杉の下地区312名うち約三割に当たる九十三人が、今回の津波の犠牲になり、未だ二十四名が行方不明のままであり波路上地区最大の悲劇の場所である。

海岸は日本百選の海水浴場に選ばれた白砂青松の「お伊勢浜海水浴場」があり、夏ともなると七軒の民宿、旅館が立ち並び大いに賑わったのである。

その背後海抜12メートルの高台に絆と題した慰霊碑が建立されてある。

あなたを忘れない
ここに居れば大丈夫だ
しかし無情にも第一波で
下手から家や車が押し寄せ
そして第二波第三波が・・・・・・
九十三名の尊い命と
すべての財産が海へと散った・・・・・・
この悲劇を繰り返すな
大地が揺れたらすぐ逃げろ
より遠くへ、より高台へ
杉の下自治会
慰霊碑の裏には九十三名の名前と年齢が刻まれている。

被災後の平成二十四年十二月、残されていた家屋が取り壊されこの地からすべての家屋が消え、自治会は解散した。

その先を望むとお勢崎と呼ぶ岬が見える。逃げ上った十名のいのちを繋いだ奇跡の物語の場所である。

その日必死に岬に避難したものの、津波は腰までせり上がり、押し流されそうになったその時、目の前に天の助け、梯子が流れてきたのだという。お伊勢神社と呼ぶ氏神の祠入口には二股の大きなケヤキが立っていて、必死に立てかけてその木に上り十人が助かったのだ。


樹木は命を救うのだ。

瓦礫がかたずけられ一面更地になった波路上地区のところどころには扇形に天を仰ぐケヤキが残っている。これは前述の明戸町に移り住んだ人たちに村が毎戸にケヤキを二本配り、命を守るために植樹させたのだという。

この地区のケヤキは大事に保護せねばならないメモリアルツリーなのである。

岬から岩井崎に至る海岸線に明戸という地名が今も残っている。

明治二十九年の大津波で住民89戸588人が暮らしていたこの地は一瞬にして433人(73.6%)が亡くなったのだ。午後の8時だったこともあって犠牲者が多く地区は壊滅した。 

現在農地の集約が行われているが、かっての井戸など集落の痕跡が残る遺構の地を何らかの形で遺構として後世に残すべきと思う。

明戸屋敷集落の後を海岸沿いに歩を進めると「海の殉難者慰霊塔」が被災し破壊された明戸霊苑の中央に天を仰いで建っている。


この塔は海で遭難した人達の霊を慰め、尚且つ海の恵みと感謝と畏敬の念を込めて気仙沼市海の殉難者慰霊塔保存会が建立したもので、毎年九月の彼岸明けには慰霊祭が行われている。慰霊塔建立時の県知事山本壮一郎の揮毫の文字は、一部津波で剥落し、周辺の共同墓地(明戸霊苑)はその半数が砂に埋もれ、が原型を留めていない。

地福寺では自助努力で納骨堂を建立して収骨に努めた。無残な姿をさらしている墓地跡は、和歌山の広川町に現存する濱口梧陵の「稲むらの火」に倣い、訪れる人の為の安全と、三陸復興国立公園の風景にマッチした「鎮魂公園」とすることを望みたい。

岩井崎に歩をすすめると岩井崎観光の拠点であった岩井崎プロムナード跡地に至る。今は更地になってしまった観光拠点機能を向洋高校に盛り込んではどうだろうか?。

岩井崎は冒頭に申し上げた通り三陸復興国立公園の南の入り口であり、北からの最終拠点なのだ。一躍有名になった龍の松、津波をうっちゃりしノコッタノコッタの九代目横綱秀の山、足元まで押し寄せた津波から寸前で地区住民家屋を守った琴平神社、等々、観光財産としての保存、修復、学術的遺産であるジオパーク指定の岩井崎をグレードアップし後世に伝える手立てが望まれる。

ここにコンクリートの防潮堤は似合わない。風景を損なうことなく自然石を以って修復した前例があるではないか、風景も財産であることを強く申し上げたい。

さて、申し上げてきた波路上地区の遺構の要となるのが向洋高校なのだ。かって伊達藩の殿様も巡行され、献上塩を生産した御用達塩田という歴史と物語があるのだ。

観光塩田としての一部再現と歴史館の設置で顕彰されることをを望みたい。


耐震構造の教室は復興商店などに丸ごと移転出来る。音楽演劇舞踊などの練習場所、ホールとしての活用も可能だ、緊急の避難場所としても経験がある。駐車場、トイレなどもすぐ完備できる。

グランドはスポーツ公園として整備し、揚げ浜式製塩法の海水を導いた四方の堀は、汽水域の生き物が泳ぎ、その周りに桜が植樹され子供たちが水に触れ遊びを通し学習できる水辺の公園としよう。ここにはかっては天然記念物の「厚岸草」が自生していたのだ。

向洋高校校舎四階外壁に残る津波の傷跡は私たちにその巨大さと、防災を後世に語り継ぐ圧倒的見教えとして存在する。

気仙沼市の基幹産業は水産と観光なのだ。

向洋高校の中にプロムナードとしての観光拠点を充実させることは基幹産業の発展に繋がることでもある。職員の適切な避難誘導で、犠牲者が出なかったことも遺構としてふさわしい。
海は時としてとてつもない災いをもたらす
それは人智を超えたものとして、海と生きる人々は畏敬の念を以って古来から海とつきあい、恵みを頂き、感謝し生きてきたのだ。

命、財産、この地が失ったものは大きい。しかし、目には見えない宝物を私たちは頂いたではないか、今なお、復興に心寄せる人たちが日本国中、世界各国に居るのだ。

「海に生きる」と復興宣言した気仙沼は未来に何を残すか、今は亡き人々、復興に心寄せる方々に見つめられている。

気仙沼の「遺構」はそれを語り継ぐにふさわしいものとして未来に残したいと切に思う。

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